gymnoの自由談

音楽系、プログラミング系の内容 方針はいずれ

倒れた木再考

以前 木が倒れたしかし誰も聴いていなかった という状況について愚痴ってみた
http://d.hatena.ne.jp/gymno/20050822#1124723641
id:n-trino氏のコメントでそもそも 存在する をきちんと定義すべきという示唆があった
今日 13時間寝て 疲れはとれたものの あまりの長時間睡眠にまぶたが開かず なんとか覚醒するために久々に開いたファインマン量子力学にそのものずばりの記述があった
彼の哲学嫌いは有名で  それだからこそ彼の息子が哲学者になりたいといって父親をさんざん悩ませ 最後にはコンピュータ関連に進んだらしいというエピソードを聞いて我々は微笑むのだが
あるいは 哲学専攻の学生を前にした講演で 哲学はくだらない と堂々とぶちまけて会場を即座にからっぽにしたエピソードでお腹が捩れたりするのだが 
量子力学の認識に対する 哲学的意味 というくだりで(岩波書店版p31) たとえ見た人がいなくても なんらかの痕跡は存在するので倒れたことを容認せざるを得ない
では 音の感覚の実在についてはどうだろう という疑問を提示しそれが 意識 の問題と関連することを述べたあと  

そして蟻が意識をもつか否か 森の中に蟻がいたかどうか 樹木が意識をもっているかどうかなど そんなことは分かりようがない そんなたぐいの問題は放っておこう

ばっさり

量子力学以前の古典物理学で観測者の存在を考慮することは とるに足らない程度の意味におけるものにすぎなかった 

らしい
もちろん これは一種のレトリックで 蟻に対する言及などの議論のすり替えは 単に議論の無意味さを強調するためのものだ 
そして ここでの存在は純粋に物理学的なものである 形而上学に対する極端なまでの無関心


やはりこの設問の解 無音 は無理がある という以前からの直感に落ち着いてしまう
それにしては あまりに多く 無音説を採る書物に出会う気がするのだが これは趣味の問題なのだろうか
人間原理についても どうしても理解できないという人が身の回りにも 物理学者にもいるらしいが ごく自然な考え方としか思えない これも趣味か